学生の頃(かなり昔になってしまうけれども)何かの読み物で、「ファッションは自分のためでなく、その場所にいる他の人たちのためにある」と書かれているのを読んだ記憶がある。ユニフォームは全てそういう事なのだと、その時理解した。
わたしが、自分のパートナーに対して「ネクタイを締をしめようね」と要求し、受諾させるのは、勿論わたしが彼女のその姿を欲しているのからだ。彼女はネクタイを締めた自分を鏡で見て、「何だか恥ずかしい」と言い、「あなたもネクタイを締めて」と続ける。ネクタイをきちんと締めた男性が好きな彼女の要求に対して、わたしも受諾する。密やかな寝室での儀式めいたわたしたちだけの特別なワンシーン。お互いが望むきちんとした装いは、それぞれのジェンダーロール(性別役割)を強調し、二人にとっては悦楽な一夜となっていく。遺伝子の異なるヒト同士、決して分り合えはしないけれども、感性のより深い地点で共有できる何かが発見できた時、より豊かな人生があるのだと思ったりする。そして、発見できたとても個人的な物事が、フェティッシュ(この場合はマニアというべきかも)な世界だったということは、ネクタイに限らずよくある事だと思う。
フェティッシュという言葉は、生命の無い物的対象が性的興奮の源になることを差し、どちらかと言うと男性に多いそうである。このサイトで言えばネクタイそのものになってしまうが、それではわたしの感性とはずれてしまう。「ネクタイをした女性」に魅力を感じてしまうマニア・・・その方が近いのかもしれない。
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