夕方。
隆一は昨日と同様、職場からの帰途にあった。いつもの通勤経路。ただし、非常な憂鬱な隆一の気分が昨日までとは決定的に異なっていた。
痴漢として駅員に連行された後、駅員や少女たちとの話し合いの結果、隆一はもう二度とこんなことはしないと誓い、初犯ということもあって警察の厄介になることだけはなんとかさけることができた。駅から解放されるとすぐに隆一は職場に向かったが、駅での話し合いに時間がかかり、結局職場に到着したときには定時を1時間以上過ぎてしまっていた。
さらに、職場に着いてすぐに、隆一は上からの呼び出しを受けた。理由は考えるまでもない。さっきの駅での一件が、それを目撃した上司によってすぐに伝わってしまったのだろう。呼び出された先で待っていたのは、多少婉曲な言い回しではあったが、要は辞職勧告と言ってよかった。痴漢のことのみならず、昨晩広場で少女に呼び止められた騒ぎのこともすでに耳に入っていた。やはりあの時、職場の知り合いの顔があそこにあったように思えたのは勘違いではなかったらしい。職場が人員を整理を考えているという噂は前からあり、隆一はちょうどいいタイミングで事件を起こしたのだろう。相手が未成年の少女ということもあり、一応辞めさせる理由にはなる。そんな破廉恥な問題を起こした人間を職場に置いてはおけないということだ。
「あっ…………」
隆一の口がふと気づいたように声を発した。陰鬱な気分でぼんやりと歩いていたためうっかりしていたが、気づくと隆一の足は自然にいつもの経路を辿って駅前の広場に来てしまっていた。昨晩の少女の姿が否応なく隆一の頭に浮かび上がる。また変な注目を集めるのをさけるために、しばらくここを通るのはやめることにしたはずだった。
「…………っ」
思わず隆一はきょろきょろと素早く周りを見回して少女を探し、その姿がないことに安堵した。結局あの少女の思惑がなんだったのかはわからないが、どうやら今日はいないらしい。もっとも、職場から辞職勧告を受けた今の隆一は昨日ほど周りを気にする必要もなくなってしまっているのだが。
「…………帰るか」
隆一はそうつぶやいて少し足早に広場を通り過ぎると、地下鉄のホームへと向かった。少女はいなくとも、広場の居心地はあまりよくなかった。多分に意識しすぎなのだろうが、広場を歩く人々の中から、昨日の騒ぎを思い出して自分に注がれる好奇の視線のようなものが感じられるのだった。
地下鉄で30分ほどの時間揺られて(もちろん、また痴漢にされないよう注意しながら)、隆一は自分の住むマンションの近くまで帰ってきた。だが、マンションが近づくにつれ隆一の足取りは重く、遅くなっていく。
これからどうしたらいいのか。隆一の頭を占めているのは、その思いだった。今の職場にはもう居られない。この不況下だ、新しい職場を探すのは容易ではないだろう。それでも隆一はまだ20代であるため、選ぼうとしなければいずれは何とかなるだろうという期待はある。それに、貯金のことも問題があった。実家を出てこの街に来て数年間は、今の生活を確かにするので精一杯だった。実家を出るときに持ち出した金もほとんど底をついている。先に明るい材料など見えなかった。
(…………ふんっ)
一瞬、実家のことを思い浮かべ、即座に否定する。馬鹿馬鹿しい。あの男のいる家に戻るなど絶対にごめんだった。にも関わらず、一瞬にしろ実家のことを浮かべてしまうなど、隆一は自分が今日のことによほどこたえているというのを改めて認識した。とにかく、今は帰ろう。心身共に疲れているからろくでもないことを考えてしまうのだ。マンションに戻ってゆっくり休んで、今後のことはそれから改めて考えよう。そう思って、遅くなっていた足をいつもの速さに戻して隆一は残りの道を歩いた。
「…………え?」
マンションの前まで来て、隆一は仰天のあまり、かえって間の抜けたような声を洩らした。
これは何かの間違いだろうか。
駅の広場にはいなかった昨日のあの少女が、どういうわけか隆一の住むマンションの前にいた。それだけではない。今朝隆一を痴漢として駅員に突き出した少女や、隆一の手を自分のスカートに導き入れた少女までもが一緒にそこにいた。互いに知り合いだったのか、マンションの前で何かを話し合っている。
「あっ、パパ! お帰りなさい!」
隆一が驚きに固まっている間に少女たちはその帰宅に気づいて、昨日の制服少女がまず挨拶と一緒に駆け寄って来た。微笑みながら昨日と同じように隆一の腕を取ろうとしてくるが、
「キ、キミらは、みんなグルだったのか!?」
少女たちの待ち伏せによる硬直が解けた隆一はその手を乱暴に払いのけて、胸の奥から叫ぶような声を上げた。
「わ、私が今日どんな……!」
激昂のあまり、それ以上言葉が続かない。
「ごめんなさい、パパ……! でも、私たち…………」
「うるさい! 私のことをパパなどと言うな! 人の人生を無茶苦茶にしておいて…………二度と私の前に顔を見せるな!!」
まだ何か言おうとする少女に、隆一は感情のまま言葉を投げつける。だが、
「ぐすっ……ご、ごめんなさい……お父さん……ぐすっ…………」
少女の1人が涙を浮かべて謝り始めたためにすぐにその勢いも霧散してしまう。だが、時すでに遅く、少女はぐすぐすと泣き始めて止まらない。
「か、花音ちゃん……」
「そんな泣かなくても……」
他の2人の少女も突然泣き始めたその少女をなだめようとするが、なかなか泣き止まない。隆一はこの事態に青くなった。こんなところを見られたら、職場を追われるだけでなくこのマンションにも居づらくなってしまいかねない。
「……パパ、とりあえず、こんなところじゃパパも私たちも話しにくいから、パパの部屋で話しましょう?」
「……あ、ああ」
少女の側からの提案に、隆一は仕方なくうなずく。これもまた隆一を陥れようとしているのかもしれなかったが、このままマンションの前で言い争っても事態は悪化するだけだ。いっそ部屋できちんと話をつけてしまった方がいいだろう。
「ほら、花音ちゃん。パパが私たちの話聞いてくれるって。だからもう泣かないで……」
隆一がマンションのキーを使って入り口のドアを開けると、花音と呼ばれた泣いている少女をなだめながらそれについて入ってくる。懸命になだめた甲斐あって、隆一の部屋に着く頃にはようやく花音も泣き止んでいた。
「……で、キミたちはなんであんなことをしたんだ?」
少女たち3人を部屋に上げると、テーブルを挟んで向かい合って座る格好で隆一は口を開く。部屋に入れはしたが、招かれざる客にお茶を出してやろうという気はさすがになかった。少女たちは真ん中に昨日最初に会った制服の少女、その右に今まで泣いていたおとなしそうな少女、左に今朝隆一を痴漢として突き出した活発そうな少女、というように並んでいた。
「それはパパを……」
「ちょっと待った」
真ん中に座る年長らしい少女がやはりリーダー格なのか、代表で口を開きかけたが、隆一は言いかけたその少女の言葉を自らの言葉で遮った。
「もう何度も言ってるが、その“パパ”と言うのは止めてくれ。私はキミたちの父親でも何でもないんだから」
「えっ……?」
隆一としては当然のこととして言ったのだが、少女たちは過剰な反応を示した。揃って顔を暗くして悲しそうな表情を浮かべ、花音は再び涙をこぼしそうになってしまう。だが、隆一にはなぜ少女たちがそんな反応をするのかどうしてもわからなかった。
「パパ……他の子たちのことを知らないのは当然だし仕方ないけど、私の…深雪のことも忘れちゃったの?」
真ん中の少女も今にも泣きそうであったが、知らないものは答えようがなかった。答えない隆一に、深雪と名乗る少女はさらに言葉を続ける。
「たしかに、ずっと会ってなかったけど、実の娘のことまでホントに忘れちゃうなんて……」
とうとう堪えきれずに少女の瞳に涙が光る。だが、隆一の頭はそれどころではなかった。
(今、少女は何と言った? “実の娘”? そんな馬鹿な話があるものか!)
隆一の頭は自分の耳が伝えた情報を否定した。常識で考えてみても自分にこんな大きな娘など存在するはずがない。そうだとしたら、隆一が何歳のときの子供だというのか。15歳くらいだろうと考えてざっと逆算、その当時の自分を思い出そうとすると、苦い記憶が甦る。
(……確かに、可能性は0ではない。その頃から性行為の経験があったことは事実だ。だが、そんなはずは……)
少女の言が事実である可能性を否定しようとする隆一の頭の奥に、少女が言った深雪という名が思い出された。さっき思い出した実家の嫌な思い出の中にその名前はあった。家を出る以前に、深雪という名の幼い少女を隆一は知っていた。その子が成長していれば、ちょうど目の前の少女くらいだろう。
「まさか……あの深雪か……?」
思ったそのままに口から出た隆一の言葉に、涙を浮かべていた少女の顔がぱっと輝いた。
「思い出したの? パパ!」
だが、そうと気づいた隆一は、
「あの男に言われて連れ戻しに来たのか? そのためにあんなことを……!」
吐き捨てるように少女に向かってそう叫んだ。
もう捨てたつもりの過去、実家からの来訪者に、思い出したくもなかった実家での生活が隆一の頭に甦ってきた。