娘姫

第1話:転落のとき

設定資料

「あっ。パパ―――ッ!」

 その男の人生はこの一言を引き金として大きく狂い始めていく。だが、当の本人はその呼び掛けが自分に向けられたものだということすら気づいてはいなかった。


 夏のある晩、大泉隆一はその日の仕事を終えて帰途にあった。職場から自分の住むマンションに戻るには私鉄と地下鉄を乗り継いで帰ることになる。ちょうどそこは乗り換えのために降りた大きな繁華街だった。駅近郊のデパートの地下食品売り場に立ち寄って今夜の食事のために惣菜を買ったあと、地下鉄の駅に向かおうと駅前の広場を横切っているときに、隆一はその呼び掛けを聞いた。

「パパ―――! 呼んでるんだからこっち向いてよ〜」

 しかし、隆一はその声を全く気にも留めていなかった。大学卒業と同時に実家を飛び出し、こっちで就職を見つけて数年。すでに三十の大台を目前に捉えているが、隆一はまだ未婚だった。こっちに来てから何人かの女性と交際した経験はあるが、いずれも長続きはしていない。かといって、春を売り物にしている女性の厄介になったこともない。自分のことを“パパ”などと呼ぶ存在のあろうはずもなかった。

「ねえ、パパ? パパってば〜〜!」

 だが、その声は隆一の方へと近づいているように聞こえる。声からすると十代半ば頃の少女のようだった。その少女が呼んでいるのが自分であるという可能性は全くないと知っていたが、さすがに何度も呼び掛けられる声に、隆一も少し気になり始めた。

(どんな娘なんだろう?)

 ちょっとした好奇心で隆一は足を止めて声の方を振り向いていた。そこにあったのは隆一の予想通り中学生か高校生になったばかりくらいの、だが隆一の予想をはるかに越える美少女の制服姿。そして、なぜか自分にも向けられた奇異と好奇の周囲の視線だった。

「あっ。やっと振り向いてくれた」

 少女はそう言って駆け寄って来た。どういうわけか、隆一に向かって。

「もう。パパったら、何回呼んでもなかなか振り向いてくれないんだから」

 少女は隆一のすぐ横にまで並ぶと、その腕を取ってきゅっと自らの腕を絡めてきた。

「え? な、何を……?」

 隆一は全く想像もしていなかった事態と、そのことが集めている周囲の視線にすっかり動転して、ぱくぱくと口を動かしてなんとかそれだけの言葉を喉の奥から絞り出した。

 何が起こっているのか。隆一は少女の姿をちょっとした好奇心で振り返って見ようとしただけだ。それが、なぜかその少女は自分のことを“パパ”と呼んで腕にしがみついている。そして、おそらく同じように好奇や奇異から少女を目で追っていたであろう周囲の視線は、そのまま隆一に集中していた。こんな不本意極まる注目を受ける理由はどこにもないはずだった。

「な、何かの間違いだ……私はキミに“パパ”などと呼ばれる覚えは…………」

 動揺と混乱のあまり、隆一の声は滑稽なほど震え、かすれていた。

「えっ? そんなぁ…………パパ、私のこと忘れちゃったのぉ?」

 だが、隆一の必死の弁明も通じなかった。少女は信じられないという風に隆一に腕を絡めたまま少し潤んだ瞳で見上げてくる。隆一はその瞳に一瞬どきりとしてしまった。

 その頃には周囲の視線も変化していた。ずっと隆一たちの方を窺っているような視線はあまりないが、新しい電車が駅に着いたのか、駅から吐き出されてきた多くの人間たちが通り過ぎながら、制服を着た少女と揉めている隆一の姿を奇異や好奇、あるいはあからさまに軽蔑するような視線を向けていった。少女の瞳に惑わされそうになっていた隆一は、その視線に我を取り戻し、さらにその視線の中に職場の顔見知りの顔があったようにも思えて、この場にこれ以上居られなくなった。

「と、とにかく……わっ私は関係ない!」

ばっ

 隆一は強引に少女の腕を振り解くと、そう言い捨ててその場から逃げるように走り出していた。

「あん、パパ待って!? どこ行くの?」

 手を振り解かれた少女の声が背中に投げかけられるが、もちろん隆一は振り返ったりはしなかった。


「はぁ……はぁ…………ふぅ」

 数分後。隆一は地下鉄の駅とは反対方向にある地下街の通路で荒い息をついていた。横にある喫茶店のウインドゥに片手をついて、息を整えて最後に大きく吐いた。全力で走るのは随分久しぶりのはずではあるが、体力は思ったより落ちてはいないようで、呼吸が元通りになるのにもそう時間はかかっていなかった。

「……これでもう大丈夫だろう」

 少女を撒いて、周囲の視線からも逃走したことを確信して、隆一は安堵のつぶやきを洩らす。夏場に走ったためにどっと吹き出た汗が地下街の冷房で冷やされる。熱くなった身体にその涼しさはありがたいが、汗を冷やしてしまうのは身体に良くない。隆一は汗を拭おうとハンカチを探してズボンのポケットに手を伸ばした。

「はい、パパ」

 しかし、ポケットに右手を突っ込んでハンカチが指に触れたちょうどそのとき、後ろから声とともに白いハンカチが差し出される。その声に新たに冷たい汗が隆一の身体から湧き出した。

(まさか……)

 おそるおそる振り返ると、そこにはやはり先ほどの少女が微笑を浮かべながら右手でハンカチを隆一に差し出していた。振り向きもせずに走っていたので迂闊にも気づかなかったが、少女はしっかり隆一の後を追いかけていたらしい。

「…………………………」

 数秒の間、隆一はハンカチを自分の方に差し出した少女の顔を無言のまま見つめ返していたが、結局はポケットに突っ込んだままの右手で自分のハンカチを掴み出して額の汗を拭う。目の前の少女は何を考えているのか。それがどうにも隆一には理解できなかった。自分が小遣いを稼ぐ相手にちょうどいいと思われたのか、それとも本当に何かの勘違いなのか。

「ねえ、パパ。本当に私のこと覚えてないの?」

 受け取ってもらえなかったハンカチを仕方なく戻しながら、少女は隆一の心情を読んだかのように尋ねる。その表情はどこか寂しそうに見えて、思わず隆一は自分の記憶を確認しながら少女の姿を凝視した。

 身長はだいたい160。微妙に茶色がかった黒い髪をストレートに伸ばし、首の下辺りまで届いている。髪と同じ色のつぶらな瞳に整った顔立ち。その首を載せているのは年齢相応に育ったスタイルのいい肢体。美少女という形容をするにふさわしく、ちゃんと会ったことがなくとも何度か通勤途中に見たことがあるだけでも印象に残っていそうなものだった。

「覚えてない……と言うか、初対面だと思うが」

 結局、隆一は首を振ってそんな言葉を出すことしかできなかった。こんな風に言葉を交わすことはおろか、すれ違ったり遠くに顔を見たりしたことすらあるようには思えない。

 結局走っても少女からは逃げることはできなかったが、さっきと違うのはまだ周囲の視線を集めてはいないということだった。とはいえ、地下街の中で制服を着た少女と一緒に話していてはまた人目が集まってくるのは明らかだ。

「とにかく、何度も繰り返すようだけど、私はキミから“パパ”などと呼ばれる心当たりは全くない。悪いけど、キミの期待には答えられないんだ」

 再び不本意な注目を浴びることになる前に話を片付けようと、隆一ははっきりとそう告げた。そのまま少女と別れて今度こそ地下鉄の駅の方へと向かう。隆一の言葉が通じたのか、今度はときどき振り返って周囲を確認したが、少女が後をついてきている様子はどこにもなかった。


「……やれやれ。今日はとんだ騒ぎに捕まってしまったな」

 ちょうど駅のホームに到着した地下鉄の中で揺られながら、隆一はそうぼやいた。結局、さっきのことは何だったのか。わからないままだったが、もう終わったことだ。万一、もし明日もあの少女が隆一のことを待っていたとしても問題はない。今日はデパートに惣菜を買いに寄ったために広場を通ったが、広場を通らなくても地下鉄の駅に向かうルートはいくつもあるのだから。

(今はよくわからないことに戸惑っていても、そのうち適当な理由が当てはまるか、忘れるかするだろう。どうせこんな妙なことが何度もあるわけじゃないし)

 

 だが、変事はそれだけではなかった。

 翌朝、通勤ラッシュの波に乗りながら、隆一は地下鉄を乗り換えて私鉄に乗り込んだ。地下鉄同様、こちらも朝はぎゅうぎゅう詰めだ。地下鉄で30分、それからまたこの私鉄でさらに30分、隆一は毎日のように寿司詰めの電車の中で耐えている。

 それが、この日はいつもと違っていた。

(うっ…………)

 隆一は内心焦っていた。理由はひどく単純だった。ぎゅうぎゅうに押し込められた中で、隆一の左手が偶然前に立っている少女のスカートに触れていたからだった。

(マズイ……なんとかしないと……)

 隆一はその状況にちっとも嬉しがることなく、困惑していた。多少手が異性の服の上から触れる程度では、何も興奮などしはしない。だが、隆一の方がそう思っていたところで、相手が痴漢だと思っていたら大変なことにもなりかねない。これ以上触れないようにさっさと手を動かしてしまいたいのだが、困ったことに電車の中はぎゅうぎゅうでそれもままならなかった。下手に手を動かせば、それこそ痴漢扱いされてしまう。

(…………幸い、この程度じゃこの娘も騒がないようだけど)

 スカートのお尻に軽く触れているのが男の手だとまだ気づいていないのか、痴漢と騒ぐほどのことでもないと思っているのかはわからないが。

ガタッ……ガタンッ……

 そう思っていたところで、ちょうど電車が減速して駅に着いた。

プシューッ

 右側のドアが開いて、ドア付近に何人かの乗客が降りていく。今なら動いても不自然ではない。そう考えて隆一は変な誤解が生じないうちにスカートに触れている手を離そうとしたが、

ぐっ

 驚いたことに、離れようとする手を追いかけるように少女は隆一の方に身体を押し付けてきた。結果として、隆一の手はさっきまでよりしっかり少女のお尻に当たることになってしまった。

「な…………」

 驚く隆一に、前にいた少女が振り返ってみせた。恥ずかしそうに頬を赤く染めながら、上目づかいにこちらを見ながら、離れようとした隆一の手を逃がすまいとするように身体を預けてきた。後ろで束ねた黒髪が胸元の辺りをくすぐり、シャンプーの香がする。

「……あっ」

 困惑した隆一がほとんど反射的に話そうと動かした手が、まるで少女のお尻を撫で上げるようになって、少女の口から小さく声が洩れた。その声に、少女のそれが移ったように隆一の顔も熱くなり始める。少女は顔をさらにどんどん上気させながら、隆一の動きを求めるように臀部をさらに押し付けてきた。もう少女の顔は真っ赤になっている。

ぐいっ……

 さらには、周囲からはほとんど見えない腰より下の空間で、少女の手が隆一の腕を掴んでスカートの中にまで導こうとした。

(ち、痴女……? まさか、こんな女の子が……)

 混乱の極みにあった隆一は、少女の手を振り解くことすら思い浮かばなかった。変な夢ではないかとさえ疑った。どう見てもまだ中学生くらいで、昨晩の少女よりも年下だろう。顔にしても服装にしても派手な様子は全くなく、今時珍しいくらいの静かでおとなしい子にしか見えない。そんな少女が男の手を取って自分のスカートの中に迎えようとしているなどといったい誰が想像しよう。

す……

 そして、抵抗を忘れてしまったまま隆一の手はとうとうスカートの中にまで導かれた。その状態であらためて少女の身体が隆一に押し付けられる。

(……じょ、冗談だろ…………)

 今度こそ、どうしようもないほどに隆一は混乱した。隆一の手が触れたのは、素肌の感触。掌に吸いつくようなしっとりとした柔らかい肌の感触が直接感じられた。

(……下着、穿いてない…………?)

 たて続けに起こる信じられない事態に、本人も気づかないうちに股間の物は充血を始める。隆一の中でずっと眠っていた情欲が、久しぶりに触れる異性の柔らかい肌の感触に目覚めようとしていた。

(本当に、下着を穿いていないのか……? 電車の中で……)

 すでに理性が本人の行動を把握していないのか、隆一はどこかぼんやりとした思考でそのことを確かめるように手を少女の臀部に這わせていた。

「ひっ……う、ううん…………」

 少女は男の手が自分のお尻の上を這いまわる感覚に、小さな声で何度もうめくような喘ぎを洩らし続けた。やがて少女の肌にじっとりと汗が湧き出してきて、吸いつくような感触がさらに増す。その間に電車は幾つかの駅を停車して過ぎていったが、少女も隆一も気づかなかった。


ガタッ

 隆一が乗り換える大きな駅の一つ手前の駅を発車する際、電車が揺れた。バランスを崩さないよう反射的に足を踏ん張って、隆一はふと我に返った。

(な、何をやってるんだ、私は……!)

 これでは本当に痴漢ではないか。窓の外に目を移すと、発車した駅のホームが見える。隆一が降りるのはもうこの次の駅だ。今はまだ満員の電車も大半の乗客が隆一と同様次で降りる。しかも、この駅区間は1分ほどでしかない。慌てて隆一は少女のスカートの中から自分の手を引き抜こうとした。

ぐいっ

 しかし、そのとき再び隆一の手は引かれた。ただし、今度は別の方向から伸びた手だった。

「この人、痴漢です!」

 いつの間にか現れた別の少女が、隆一の手を掴んで高々に叫ぶ。周囲の軽蔑と嫌悪の眼差しが一気に隆一に集中した。

「あっ……うぅ…………」

 隆一は恐れていた事態が現実となってしまったことに蒼白となった。だが、元はと言えば少女の方から身体を寄せてきたのであって、自分から痴漢しようというつもりはなかった。その少女が何か言ってくれればと、一縷の希望を抱いてその少女の方を見る。

「うっ……うぅっ……!」

 だが、その瞬間に隆一の希望は打ち砕かれた。自分の方から隆一の手をスカートの中に導き入れたはずの少女は、赤い顔をうつむかせたまま嗚咽していた。

キキ―――ッ

 電車が駅に到着すると、腕を掴んだ少女や周りの乗客に連れ出されるようにしてホームに降りる。だれかが連絡したのか、すぐに駅員が隆一のところまでやって来た。隆一は絶望的な思いにとらわれたが、

「あっ…………」

 それに追い討ちをかけるような現実があった。何かの悪い偶然か、職場の上司が同じ電車に乗っていたらしく、痴漢として駅員に突き出された隆一と視線がぶつかる。駅員室での話し合いでなんとか警察に連絡がいかずに済ませられたとしても、職場には痴漢として突き出されたという事実が確実に伝わってしまうだろう。

 おしまいだった。

 

続く
 


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