HAPPY BIRTHDAY
10/18


「ただいまーっ」

 急いで学校から帰ってきた衛は、玄関の扉を開けてそう言うなり、自分の部屋へと駆け戻った。

 数分後、

「いってきまーす!」

 制服を着替えて、帰ってきたときよりもさらに元気よく家を飛び出していく。兄との約束にはまだ時間の余裕があるが、今日は朝から胸がどきどきしっぱなしで、落ち着いてはいられなかった。

 今日は10月18日。衛の誕生日だった。


 しかし、気持ちは逸っているのだが、待ち合わせしている公園へと向かう衛の足は普段よりかなり遅いものだった。

「あはっ。あにぃ、ボクのこと見たらビックリするかなぁ……?」

 それも無理はない。衛が今着ているのは、普段の活動的な格好ではなく、ヒラヒラのたくさん付いた水色のワンピースだった。いつもは兄とスポーツしたりして一緒に身体を動かしているのが好きな衛だったが、やはり誕生日くらいは自分のことをちゃんと女の子として見てもらいたいという乙女心だ。

 数日前、今日のために可憐に見繕うのを協力してもらったワンピースだったが、やはりこの格好ではそう速くは走れない。無理に急いで転んだり裾をどこかにひっかけたりして、服を台無しにしてしまったら何にもならないのだから。

「……まだあにいは来てないよね?」

 待ち合わせ場所の公園のベンチに着いた衛は、きょろきょろと周りを見て、兄の姿がないのを確認した。何も知らずにやってきた兄にこの姿を見せてびっくりさせてやりたいのだ。

「ふぅ……」

 10月も半ばを過ぎたが、まだ日中はかなり暖かい日が多い。あまり着慣れない服で転ばないように注意しながらもそれなりに急いでここまでやって来た衛は、額に少し滲んだ汗をハンカチで拭う。ベンチに座って公園の時計を見ると、約束の時間までまだ10分ほどある。とはいえ兄のことだ、あと5分もしない間に来てくれるはずだ。

 衛はそう信じて疑わなかった。兄は必ず約束の時間までに来てくれる、と。

 しかし、衛がベンチに座って兄を待ったまま5分経ち、10分経っても兄は現れなかった。公園の時計に内蔵された機械仕掛けの小鳥が約束の時間になったことを告げるが、衛がベンチから立って周囲を見回しても兄の姿は影もなかった。

「あにぃ……どうしちゃったんだろ? まさか忘れちゃったなんてことないよね」

 想像もしていなかった事態に、力が抜けたように再びベンチに腰を下ろした衛が自問する。

 そんなはずはない。これまでだって、兄は一度も妹たちとの約束を忘れてしまうようなことはなかった。それが、今日に限って忘れてしまうなんてことがあるとは思えない。

(それは、ボクは可憐ちゃんや咲耶ちゃんみたいに女の子っぽくはないけど……)

 だからって、兄が衛との約束をおざなりにしたりはしない。そんな兄だったからこそ、衛は兄のことが大好きなのだ。

 ……もっとも、それでもやはり“女の子らしい妹”の方が兄は好きなのではないかとたまにコンプレックスのようなものを感じることはある。だからこそ、女の子らしいところも兄に見せたいと思って今日はおしゃれしてワンピースを着て来ているのだが、それはさておき。

「あにぃ…………」

 時計を見た衛は、心配げにつぶやく。時計の針は、約束の時間をすでに5分も過ぎていることを示していた。

「ホントに、どうしちゃったんだろ……?」

 ベンチに座って考えていると、次第次第に思考が悪い方へと進んでいく。

(ひょっとして……ここに来る途中で事故か何かに遭っちゃったんじゃ……)

 救急車の音など聞こえなかったし、そんなこと、と思うが完全に否定することはできない。一度考えてしまうとじっとしてられなくなった。

「……よしっ!」

 これだけ待っても来ないというのは、考えたくはないが本当に兄に何かあったのかもしれない。何かの事情で遅くなっているだけであれば行き違いになってしまう可能性もあったが、もし兄に何かあったのなら兄の家に行けば、何かわかるかもしれない。

 兄の家に向かうことを決めて公園から飛び出そうとしたちょうどそのとき、誰かがこっちに走って近づいてきた。

「あにぃ!?」

 思わず衛は大きな声で呼びかけてしまった。しかし、すぐにそれが男ではなく少女の影だというのがわかった。ただ、それはよく知った顔だった。

「衛ちゃん!」

「か、可憐ちゃん!?」

 駆け寄って来た可憐に、衛は驚きの声を上げた。なぜ、ここに可憐がやって来たのか。それも、ここまでずいぶん急いで走ってきたらしく、衛のそばまできた可憐は息を激しく乱していた。

「はぁっ、はぁっ……ご、ごめんなさい…………遅くなっちゃって……!」

「ど、どうして可憐ちゃんが……?」

 可憐の言葉は、たまたまここを通りがかったというわけではなく、初めから衛に会うためにやって来た人間のものであった。なぜそうなるのかがわからず、疑問がそのまま口をついて出た。

「……そ、それが……お兄ちゃん、急に熱を出しちゃったみたいなの。それで、可憐に電話で今日来れないことを代わりに伝えて欲しいって……!」

「えっ!? あ、あにぃが!?」

 衛の驚きに可憐はうなずきを返し、言葉を続ける。

「それで、お兄ちゃんあたしたちに心配かけないよう元気な声作ってたけど、ホントはつらそうだったの。できれば可憐も今すぐお見舞いに行きたいんだけど、今日はこれからピアノの練習があって……」

 可憐はそこで無念そうに言葉を濁し、右手に持った楽譜等を入れた小さな鞄を軽く掲げてみせた。

「だから、衛ちゃんがお見舞いに行ってくれると……」

 可憐がまだ何かを言っていたが、もう衛は聞いていなかった。

「あ、あにぃ〜! 今行くから!」

 不安的中して、兄が熱を出していると知った衛はすぐさま全速で兄の家へ走り出す。が、来たとき同様、ワンピースの裾が動きを妨げて、いつものようには走れない。衛はこんな時に限って動きにくい格好をしていることを激しく後悔した。

 

バタンッ! ダダダダダ…………

 ドアの向こう側で音がどんどん近づいて来たかと思うと、

バンッ!

「あにぃ、大丈夫!?」

 勢いよく開かれたドアから衛が部屋の中に飛び込んできた。

「ま、衛!?」

 部屋の中でベッドに横になっていた兄は、妹の突然の登場に驚いて上体を起こす。額にのせていた濡れタオルがボトッと兄の額を離れて膝の上の掛け布団の上に落ちた。

 部屋に駆け込んできた衛はベッドの上で驚いた顔をしている兄を見つけて、

「あっ……! ご、ごめん、あにぃ……ボク、あにぃが病気だって聞いてびっくりして慌ててて……」

 自分の騒がしさに気づいた衛は、失敗したと目を伏せてしまう。

「い、いや……寝つけなかったところだから、別に気にしなくていいよ」

 慰めるように言葉を返して、兄は額から落ちた濡れタオルを拾い上げようとする。だが、衛はそれに制止の声を上げた。

「あ、いいよ。ボクがちゃんとするから、あにいは寝てて」

 そう言って衛はさっと先にタオルを布団の上からひったくるように取ってしまう。兄は一瞬迷ったが、お見舞いに駆けつけてくれた衛の好意に甘えてしまうことにして、妹の言葉通りに再びベッドで仰向けに身体を倒した。

「……はい、あにぃ」

 額にのせて温かくなってしまっていたタオルを、ベッド横の棚に置いてあった洗面器の水で冷やしてから、衛はそれを兄の額にのせ直す。その冷たさに心地よく目を細めた兄は、しかしすぐに思い出したように表情を暗くした。

「……そういえば、可憐に伝言は頼んだけど、まだ直接言ってなかったね。ごめんよ、約束破っちゃって。せっかくの誕生日だったのに……」

「しょうがないよ。病気になっちゃったんだから。……それより、あにぃの熱が下がるまでずっとここで看病してあげるから、早く元気になって」

 謝ろうとする兄に静かに首を横に振った衛は、そう答えると椅子をベッドのそばまで持って来てそこに腰を下ろした。

「え? でも、今日は衛の誕生日なんだから……」

「いいよ。だって、ボクがそうしたいんだから」

 せっかくの誕生日を自分の看病なんかでつぶすことはない。そう告げようとした兄の言葉は、衛の言葉に遮られた。兄が言わんとすることをわかったうえでそう言うのならば、兄は衛にそれ以上は言えなかった。兄自身、病気のときは一人ではなく誰かにそばにいて欲しいという気持ちがないではない。心のどこかでほっとしつつ、兄は妹の言葉に甘えて目を閉じた。


「ん……」

 自分が弱っているときにそばに誰かがいるというのは安心するものだ。兄は目を閉じた後すぐに寝入ってしまい、次に目を開けたのは時計の短針が90°以上も進んでからだった。一眠りしたおかげで熱はいくらか下がったのが、かなり気分は楽になっていた。寝ている間も衛はタオルを何度か換えてくれていたのか、額にひんやりとした感覚がある。

 ふと横を見ると、椅子はまだベッドの横に残っていたが、そこに座る妹の姿はなかった。時計を見ると3時間ほども寝ていたのだから、それも当然だろう。もう夜と言ってもいい時間帯だ。自宅で誕生日祝いのごちそうも出ているのだろう。

ガチャッ

「……あ。あにぃ! 起きたんだ?」

 帰っているのが当然だと思いつつも一抹の寂しさを感じていた兄の耳に、ドアを開ける音と衛の声が飛び込んできた。

「ついさっきまで可憐ちゃんもお見舞いに来てたんだよ。あにぃは寝てたからちょっと玄関まで送ってきたんだ」

 そう言いながら衛は元通りベッドのそばの椅子に座る。

「ま、衛……っ!」

 兄は衛に対する愛おしさが急激に高まるのを感じていた。それはもしかすると熱で自分の心が弱っていたためなのかもしれなかったが、そんなことは考えられなかった。

ぎゅっ……

 半身を起こした兄は、ほとんど衝動的にそばにあった妹の身体を抱きしめていた。

「あ、あにぃ……?」

 抱きしめられた衛は、突然の兄の行動に戸惑いながらも頬を熱く上気させた。

「好きだよ、衛……愛してる……!」

 次いで兄の口から紡ぎ出された告白の言葉に、衛の顔はさらに熱くなり、まるで衛の方が熱に浮かされたようになってしまった。

「んんっ……!?」

 衛からの返事を待たず、愛を告げた兄の唇はそのまま妹の唇に近づいていき、重ねられた。

(キ、キス……!? それも、あにぃと…………?)

 次から次の急激な展開に、衛はついていけず、頭が真っ白になっていく。しかし兄はそれを、衛が自分を受け入れてくれたために抵抗も何もしないのだと思った。

「あっ!?」

 唇を離した兄は、再びベッドの上に倒れこんだ。ただし、今度は衛の身体も一緒に。

 抱きしめていた手で引っ張るようにして衛をベッドに横たわらせた兄は、添い寝するような格好のまま再び顔を近づけた。

「んんむっ……!」

 今度はただ単に唇を重ね合わせるだけのキスではない。これからキスのさらに先に進むことを前提とした、前戯としてのキスだ。同時に2つある胸のまだ青い果実の1つに右手が伸びる。

「やだっ。あ、あにぃ……!」

 さすがにそこまでくると衛も我に返って抵抗の意を示すが、熱と興奮でもう兄には聞こえなかった。

ぐっ

 服の上から衛の胸を愛撫しようとしていたが、それでは兄自身満足できないのか、すぐに衛の服を剥ぎにかかった。今日の兄との約束のためにわざわざ用意した水色のワンピースが無理矢理引き破られんばかりになったとき、

「いやっ! やだよ、あにぃっ……!」

 拒絶の叫びが再度発せられた。衛の必死の訴えはようやく兄に届く。

「あっ……」

 涙目になった衛の顔を見た瞬間、暴走していた感情が急速に冷えていく。あとに残るのは、どうしようもない後悔と慙愧だった。

「ご、ごめん……! 僕はなんてことを……!」

 今さら謝っても、時間は元には戻らない。未遂とはいえ妹をベッドに引き込んで奪おうとしていたのは事実だった。兄が身体を離すと同時に起き上がった衛の瞳は、涙が浮いて哀しみの色に染まっていた。

「僕は…………」

 おまけに、興奮したせいで熱がまた上がってしまったようだ。目の前の衛の像がぼやけ、意識が朦朧としてくる。謝って済む問題ではないが、額を床に擦りつけてでも謝りたかったのだが、それもできそうにはなかった。

「……あにぃ……?」

 微かに衛の声を聞いたように思いながら、兄の意識は深い後悔とともに闇に没した。


「うぅ…………」

 意識を取り戻したとき、兄は妙なことに気づいた。身体を折って突っ伏すように意識を失ったはずの自分の身体がベッドにちゃんと寝ている。しかも、布団もちゃんと掛け直され、額には冷たいタオルがのせられている感覚まである。まさか、まさかと思いながら横を見ると、衛はそこに座っていた。

「あにぃ……目、覚めたんだ」

(さっきまでのは全部、熱が見せた変な夢だったんじゃないか。衛に来てもらってから今まで本当はずっと寝ていたんじゃ……)

 一瞬、兄はそんな風にも思った。だが、どこか沈んだような表情で、微かに涙の跡を残している衛に、それが自分勝手な都合のいい想像だったとすぐに気づく。

「ま、衛……その……」

 何か言葉をかけようと思うのだが、言葉が出ない。あんなことをした自分を、熱で意識を失っている間ちゃんと看病していてくれたのだ。何と言えばいいのかわからなかった。

「……あにぃ、なんであんなことしたの?」

 兄が言葉に迷っている間に、衛の方が先に口を開いた。

「ごめん……って、謝って済むことじゃないけど、あのとき僕はどうかしてたんだ……」

 強くこちらを責める語調でなかったことが、かえって兄にはつらく感じられて、うなだれるように言葉を返す。熱のせいで感情の抑止ができなくなっていたのか、衛のことが愛しいと思った瞬間、自分を抑えることができなくなってしまったのだ。もう暴走はしていないが、衛を愛しく思う気持ちは変わっていない。しかし、さすがにここで“衛が好きだから”などとは言えなかった。衛の気持ちも考えずあんなことまでしてしまったのだから。

「……それじゃ、あにぃがボクのこと好きだって言ってくれたのも、全部ウソだったんだ……」

 だが、思いがけない言葉が衛の口から出てきて、兄は慌てた。見ると、衛は今にも泣きそうになってしまっている。

「ち、違う! そうじゃないよ!」

 衛の誤解を正そうとして自然声が大きくなってしまう。兄は上体を起こすと、涙を今にもこぼしそうな衛の瞳をしっかり見つめて口を開いた。

「逆だよ。衛のことが好きだ、って思ったら自分を抑えられなくなって、衛のことも考えずにあんなことをしそうになっちゃったんだ」

「えっ……? ほんとう……?」

 今にも崩れそうだった衛の瞳に希望が浮かぶ。兄はその視線をしっかりと受け止め、大きく首を縦に振った。

「……よかったぁ……」

 衛の瞳から涙が溢れ落ちる。しかし、それは哀しみの涙ではなく、暖かい涙だった。

 

 それから10分ほどして、衛は兄の部屋から帰ることになった。本当は、お互いの気持ちを確かめたところで改めてさっきの続きを、という思いもなくはなかったが、そういうわけにもいかなかった。兄の熱はまだ微熱が残っていて、途中でまた熱が上がることになってもいけない。衛の方も、兄が2回目意識を失っていたのが30分ほどだったとはいっても、さすがにもう帰らないといけないような時間だった。

「んっ……」

 しかし、最後にキスだけでもと、唇が軽く重ねられる。名残惜しかったがやがて唇も離れ、さよならという間際になって、

「その格好……」

 兄は口を開いた。いつもと違うワンピース姿の衛を上から下まで見て、

「……すごく、かわいいよ」

 今さらのようだったが、言わずにはいられなかった。

 それを聞いた衛は、嬉しさと恥ずかしさに顔を赤くし、そのまま帰路についた。


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