その3

 

 

 

「そんな事よりも、こちらへどうぞ」

度重なるショックから立ち直れぬ島津は、促されるままに年期の入った木の床の広

い縁側を歩いて行く。ふと脇を見れば、いったい何処の名刹か? はたまた高級料

亭か? と、目を擦りたく成るような広々とした見事な日本庭園が設えられていた

。悠々と色鮮やかな錦鯉が泳ぐ池には、見る者を楽しませる為に煌々と照明が当て

られている。綺麗に枝を整えられた松の横には苔むし風合い豊かな巨石が悠然と佇

んでいるのだ。しかし、そんな見事の光景も、次の瞬間には島津の心からぶっ飛ん

でしまった。

 

「どうぞ、こちらです。どうか私のささやかなコレクションを見てやってください」

「こっ… これは… 」

初老の部下の言うところの『趣味の部屋』は、島津にとっては宝の山に思えた。

「噂で聞いたのですが課長も釣りが御趣味だとか、しかも鮎釣りを御贔屓にされる

 と窺っていましたので、お目汚しとは思いますが是非いちどお招きして、コレク

 ションを御覧いただきたいと思ったのです」

十帖ほどの和室の壁には専用のラックが設えられており、各段には無造作に鮎釣り

用の竿が並べられていた。

 

(あれはがまか◯つの… そっちはダ◯ワ、それにシマ◯の… )

いずれも各釣り具メーカーの最上級クラスの竿の数々が並べられたラックを見て、

島津は心の底から羨ましく思う。若い頃から鮎釣りにのめり込み、毎年解禁日には

家族サービスを放り出して渓流に向かう彼の愛用の竿は、もう5年ものでバーゲン

の際に思いきって奮発した代物なのだが、目の前にある超高級品の数々に比べると

価格は定価であっても五分の一にも満たぬだろう。溜息を漏らし羨望の眼差しを向

ける島津に対して、初老の部下は追い討ちを掛けて来る。

 

「こちらを見て下さいよ、課長」

彼が取り出したのは、釣りの趣味が無ければ漆で綺麗に塗られた細みの竹竿に過ぎ

ないのだが、見る者が見れば驚くような逸品だった。

「これは… 」

「そこらに並べてあるカーボン製の竿は私が購入したのですが、これは女房の亡く

 なった親父さんが手に入れた品物なんですよ。なんとなく趣があっていいでしょ

 う? 」

何となくどころでは無い、実用的な鮎釣りの竿でありながら文化工芸品と言っても

過言では無い仕上がりの逸品を見て、島津は羨ましいを通り越して呆れ返ってしま

った。

 

「よい目の保養をさせてもらいましたよ、矢島さん」

「いやいや、何しろ釣りの腕前はからっきしなもので、ついつい道具に頼ってしま

 うのですよ。まあ、さすがにコレはまだ、一度も使った事はありませんがね」

何処ぞの名人が心血注いで造り上げたのであろう逸品だから、実際に使えぬと言う

初老の部下の台詞は大いに納得できた。

「課長は釣には何処まで行かれるのですか? 」

「えっ… ああ、私は◯◯県の◯◯郷の近辺ですよ」

彼と同じように鮎釣りに情熱を燃やす年上の部下との会話は楽しく、しばらく二人

は鮎釣り好きにはたまらぬ楽園の中で夢中になってお互いの経験を語り合った。

 

「あの… お話の途中で申し訳ありませんが、御膳のしたくが整いました」

共釣りの醍醐味を語り合っていた時に、いつの間にか部屋に香代子が入って来て話

し掛けてきたから島津は驚き慌てた。

「ああ。すみません、奥さん。すっかりと夢中に成って御主人と話し込んでしまい

 ました。どうぞ、お構いなく、そろそろお暇いたしますので」

「まあまあ、課長、そんな事をおっしゃらずに、女房の手料理で申し訳ありません

 が、お食事だけでも御一緒下さい」

慌てて暇乞いする島津を矢島は慌てて引き止める。

「何の御持て成しも出来ませんが、お膳のしたくは整っておりますので、どうか島津

 様、お召し上がりに成って下さい」

 

驚く程の年齢差のある夫婦に熱心に引き止められた事から、結局島津は夕食を招かれ

る事にした。

(こりゃあ、まさしく御膳だなぁ… )

庭に面した大広間で分厚い座布団に尻を落とした島津は、漆塗りも鮮やかな膳を見て

呟いた。季節の焼き魚に香ばしいかおりの天麩羅がメインの御膳は、ここがまるで料

理屋では無いかと錯覚させる内容だった。広間の床の間に飾られた壷は、テレビの鑑

定番組で見たような代物だし、彼の自宅のマンションのリビングとダイニングを足し

たよりも大きな和室の広間だけでも十二分に島津の度胆を抜いていた。

 

「たいしたモノですね」

広間をぐるりと見回して、島津は素直に賛嘆の言葉を口にした。

「いや〜、広いだけが取り柄の古屋ですよ、課長」

上座は固辞したのだが、強引に座らされた島津は多少の居心地の悪さを味わっていた

。なにしろ会社ではオドオドしている矢島だが、この屋敷では威風堂々と振舞ってい

て、しかも癪に触るが妙に似合っているのだ。どうしたものかと考えていると、失礼

しますと言う言葉の後に廊下に面した障子が開き、香代子は御盆に徳利を3本乗せて

現れた。

 

「おい、香代子、恵里子はどうしたんだ? 」

「いま、おめかししていますよ、すぐに来ますわ」

誰の事かと訝る島津を他所に、矢島は立ち上がると廊下に顔を突き出した。

「おい、恵里子! なにをぐずぐずしているんだ? お客さまをお待たせするとは、

 けしからんぞ! 」

「は〜い、お義兄さま、いま、いきま〜す」

華やかな返答の後にパタパタと廊下を駆ける足音が響き、やがて年の頃は二十代前

半に見える美女が姿を現した。

 

「こんにちわ島津さん、いらっしゃいませ」

「あっ、ああ、こんにちわ、お嬢さん」

困惑した島津は矢島と美しい娘を交互に見た。

「御紹介します、課長。この姦しい娘が妻の香代子の妹の恵里子です。えっと、今

 は大学の2年生だったかな? 」

「いやだ、義兄さん。この間、3年生への進級祝いをしてもらったばかりなのに…

 まったくお姉ちゃん以外に事には疎いんだから」

わざろらしくブッと頬を膨らませて怒りを表現しているが、それがちっとも不愉快

には見えぬ愛嬌を持つ美女は、言われてみれば姉の香代子に雰囲気が似ている。

 

「ほら、突っ立っていないで課長にお酌しないか、恵里子」

「いや、そんな、若い子にそんな事をさせては… 」

今どきの女子大生のプライドを考えて遠慮の言葉を口にした島津だが、彼の思いな

ど関係なく恵里子は姉が運んで来た御盆から徳利を取上げると、今夜の主賓の脇に

跪く。

 

 

 


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