ボクハ心ヲ求メ求メ

                              浦葵 洸

 

 先生の家は、住宅街の奥まった所に、ポツン、と建っているアパートだった。

 何度となく訪れた場所だった。しかし、訪れる度に、僕は自分が道を間違えているのではないかも知れない。そう思わせる場所にあった。人目につかない。そんな表現がしっくりくる場所なのだ。歩いて三分の近場にコンビニまで有るというのに。

 ドアの前に立ち、コンコンとノックすると、まもなく、先生が顔を出した。

「いらっしゃい」

 まるで、僕が来るのがわかっているかのような口調で、先生は言った。背後にはたくさんのダンボールが見えた。引越しをするのだ。

「・・・・・・  お邪魔します」

 どもりながら答えて、玄関に入った。玄関にはスリッパしかなかった。

「引越会社の人、手伝いにこないんですか?」

 部屋には先生しかいないのを確認して僕は言った。

「君が来るとわかっていたからね」

「僕がですか?」

「そう、君が」

 先生は自信たっぷりに言った。

「さっきだってそうよ。君が来たのは、足音でわかったわ。コツコツコツって、君の足音だもんね」

 そういって先生は、にこにこ笑った。つい最近コンタクトにしたはずの先生の顔には、なぜか眼鏡が掛けられていて、危うくそれが落ちそうになった。

「先生、眼鏡・・・・・・」

 僕が言うと、先生は、「ああ」と応じた。

「コンタクト、捨てちゃったわ」

 あっけらかんとした口調だった。僕も騒ぐ気にはなれなかった。

「高いでしょ、コンタクト」

「うん。両方で2万円ぐらい。でも、痛いから捨てちゃった。・・・・・・もったいないかな」

「もったいないですよ」

 そう言うと、僕はダンボールのひとつを取り上げた。

「荷造り、手伝います。出発は明日でしょ」

「そうね・・・・・・ 明日よ」

 先生は言った。でも、そういった割には、あまり片付いていない。

「間に合うんですか?」

「そうね・・・・・・ そうよ、君も言ったじゃない。引越会社の人。その人たちが手伝ってくれるわ。だから、あしたは手伝いに来なくても大丈夫よ」

 見送りは・・・ と聞こうとしたが、やめた。僕がここに来ていることは、あまり、他人に知れないほうがいい。それは先生もよくわかっていた。小さい町だから。

 それから黙々と梱包作業を行った。僕はまじめにダンボールに荷物を詰めていったが、先生は、ただ荷物をひっくり返しているように見えた。

「先生・・・・・・」

 何してるんですか? と聞こうとしたが。「なあに」

 と、すぐに聞き返してきたので、どうも聞き辛くなってしまった。

「いえ・・・・・・ なんでもないです」

「そう」

 それだけ言うと。先生は楽しそうにタンスをひっくり返した。ブラジャーやらショーツやらがどさどさと落ちて、山を作った。

 先生は、ブラジャーをひとつ手に取ると、頭の上にかざした。

「蝉」

 先生はにこにこしている。僕は、はあ、としか言わなかった。

「面白いでしょ。こうやってはずすと・・・」

 先生はブラジャーを下ろした。

「普通の人間。でも、着けると・・・」

 先生はブラジャーを上げた。

「蝉。ミンミン鳴きたくなってくるわ」

 そう言うと、先生は本当にミンミン言い出した。

「先生」

「ミーン、ミーン」

「先生」

「ミーン、ミーン」

「先生」

「なあに」

「下着。こっちのダンボールに入れていいですか?」

「ん、任せた」

 そう言うと、先生は持っていたブラジャーをごみ箱に投げ捨てた。

「よし、君、早く荷物を詰めたまえ」

 心なしか、嬉しそうだった。

 僕は、荷物でいっぱいになったダンボールを梱包しようと、ガムテープをビッと伸ばした。

「君、そのまま」

 正面を向くと、先生がカッターをチキチキ伸ばして立っていた。顔には僕がここに来て、初めて真剣な表情を浮かべていた。

 先生はじっと僕を見た。僕はなんだかぼんやりしていた。

 やがて、チキ・・・ と、カッターが限界まで伸びきると、先生はいきなりカッターを横に薙ぎ払った。

 ガムテープが、スパン、と根元から切れた。僕は思わず、目をつぶっていた。

 滑らかに切れたガムテープを見て、先生はさもご満悦な表情で頷いた。

「うん。いい切れ味。そう思わない、君?」

「ですね」

「これひとつで3千円もしたのだよ。工務店で一番高いやつを買ってきたの。もったいないかな?」

「いいんじゃないですか」

「うん!」

 先生はいよいよ嬉しそうだった。

 梱包作業はなおも続いたが、先生はやっぱりひっくり返してばっかりだった。

 結局、その日のうちには梱包は終わらなかった。

 先生は終わりごろ、僕を正面に立たせると、自分の掛けていた眼鏡を僕に掛けた。そして、眼鏡の表面をぺろぺろ舐め始めた。フレームもきれいに舐めて、その時、舌が耳にあたってゾクッとした。

 ひとしきり舐め終わると。先生は嬉しそうににんまりと笑った。

「その眼鏡は私の物。返して」

 僕は先生の唾液でべとべとになった眼鏡を、先生の顔に掛けた。

 先生は、くい、とキスするかのように顔を伸ばした。僕は、先生と同じように、眼鏡をぺろぺろ舐めた。僕の舌が耳にあたっても、先生はぴくりともしなかった。

 舐め終ると、先生が言った。

「よし。最後のセックスしよう」

 ぼくは、はあ、とだけ答えた。あんまりそんな気分でもなかったのだが、先生はもう僕を押し倒していた。

 行為中。先生は僕に聞いた。

「ひげ、剃った?」

「・・・・・・ はい」

「初めて?」

「初めてです。親のシェーピング・クリームと剃刀使って」

「だろうなあ」

 先生は、ふふふ、と笑った。

「お父さんのにおいがするもの」

 

 翌日、先生はやっぱり死んでいた。

 手首と足首と喉を、あのカッターで切っていたそうだ。

 顔に眼鏡が掛かっているかは、聞かなかった。

 僕は、表情なくぼんやりとしていたけれども、涙はちゃんと流れてきた。それがやけに嬉しかった。拭いても拭いても涙はあふれてくるので、一日中、流れるままにしておいた。

 ふと、思い立って、僕は小ビンを探し、見つけた。目にあてがうと、すぐに涙でいっぱいになった。コルクの蓋をしっかりと押し込むと、キュッといい音がした。

 涙は寝ている間に止まってしまった。これからは、一生涙は出ないだろうと思った。

 たまに、小ビンを見てオナニーしようと思った。




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