『永遠の〈少女〉・杉原真奈美&彩崎若菜』
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風ながれる草原に立ち、〈少女〉は背中の「白い翼」を広げた。
未来はどこまでも続く「可能性」を提示し、〈少女〉は風の中ほほえんだ。
傍らでささやく優しい「声」に、〈少女〉は耳をかたむける。
「はい……ずっと、永遠に」
〈少女〉は誓う。
「永遠に、あなたと……」
白い羽が風に舞い、〈少女〉に祝福を、そして永遠を約束する。
〈少女〉は瞳を閉じ、両手を胸の前で組む。
そして〈少女〉は、「言葉」を「カタチ」にした。
「わたしは、永遠にあなたと共に在ることを、ここに誓います」
1
ベッドの中で上半身を起こし、杉原真奈美は、病室の窓から入り込む見なれた景色を眺めていた。
真奈美には、「現実」とはまるで「幻想」と同じように感じられる。
醒めない夢の中で、自分はただここに「在る」かのようだ。
意味もなく、ただ……ここに「置かれて」いるかのように感じていた。
溜息を吐く。
なにも変わらない。
真奈美は、普段着となってしまったパジャマにカーディガンを羽織り、それと自覚できるほど思うように動かなくなった細い身体を床に立たせた。
立ちくらみがした。世界が、真奈美が両脚で立つことを拒否しているかのように。
真奈美はベッドに座り込んだ。
たったこれだけで、真奈美の心臓はドクドクと大きな音で波打っている。真奈美にも、その音は聞こえていた。
「……本当に、もう……だめなのね」
真奈美が病院内の散歩を医師に禁じられたのは、つい昨日のことだ。
昨日まで彼女は、退屈な病院生活の中で気を紛らわすために、院内の散歩を欠かした日はなかった。そのくらいしか、することがなかったのも事実だ。
だが昨日。真奈美は散歩の途中で倒れた。
自分では倒れたという意識はなかったが、気が付くと病室のベッドに寝かされていた。細い腕には点滴が四つも繋がっていて、真奈美はやるせない気分になった。
「杉原さん。これからは先生か看護婦が許可しないかぎり、ベッドから降りないように」
真奈美が密かに「ゲロガエル」と名付けた彼女の主治医が、真奈美にそんな不名誉なあだ名を与えられたのも仕方ないと思える、蛙のような異様に脂ぎった顔で告げた。
「……はい」
と、真奈美は神妙に答えたが、心の中では「カエルのくせに」と思っていた。
ベッドに腰を下ろした真奈美は、ナースコールボタンを押した。すぐさま顔見知りの看護婦がかけつけてきた。
「どうしました? 杉原さん」
「あの……すみませんが、おトイレにつれていってもらえませんか」
自分より五歳ほど年上なだけの看護婦に、真奈美がそう告げるには、結構な勇気が必要だった。
トイレにも自由にいくことができない。病弱な身体が疎ましい。
看護婦が、病室の隅に置かれていた車椅子を真奈美の側まで運んでくる。真奈美は「すみません」といいながら、車椅子に移動した。
真奈美は看護婦に車椅子を押され、車椅子用のトイレに入った。これが初めてということはないので、使い方は理解していた。
「終わったら、声をかけてくださいね」
ドアを閉め、看護婦が外に出る。
真奈美は、パジャマのズボンとショーツを足下まで下げてから、手すりを掴んで便座に身体を移動させた。
ジョボジョボという、恥ずかしい音が響く。
真奈美は「この音、看護婦さんに聴かれているかも」と想像し、排尿の加減を調節しようと下腹部に力を入れてみたが、上手くはいかなかった。
(ま、まだ……?)
思っていたより、真奈美は排尿を我慢していたらしい。恥ずかしい音が続き、真奈美は泣きたくなった。
病弱であるということが、自分の全てを台無しにしてしまう。
普通でいい、なんの「特別」もなくていい、普通の女の子として生活ができればそれで十分。
真奈美はずっと、そんな身体が欲しかった。そんな自分を望んでいた。
だが現実(もしくは「痛み」を伴う夢)は、真奈美にそれを許さなかった。病弱ではない真奈美に、「存在理由」などないかのように。
徐々に、だが確実に病魔は真奈美の身体を蝕んでいる。それは多分、真奈美が考えているよりも強い力で。
やっと排尿を終えた真奈美は、トイレットペーパーで股間を拭いショーツとズボンを上げ、手元の排水ボタンを押してから車椅子に戻った。
正面のドアまでには少し距離がある。
真奈美は車輪に手をかけ、力を込めて前に押す。車椅子が少しだけ前に進んだ。
(車椅子って……こ、こんなに、重かったかしら……?)
たった一メートルほどの移動で真奈美の細腕はくたくたになり、鼓動が身体中に大きく響いた。
真奈美は苦しく締め付ける胸の奥を癒すように、薄い胸に手を当てて息を整える。
「……ふぅ」
少し落ち着いた真奈美は、看護婦を呼ぶためにドアを内側からノックした。
「杉原さん……もう歩けないみたい」
「……そう。かわいそう。まだ若くて、あんなにかわいいのに……」
ナースステーションで同僚のそんな会話を耳にした彩崎若菜は、書類を整理する手を止めて渋面な顔をつくった。
若菜は今年看護学校を卒業し、看護婦一年生として、真奈美が入院している天河大学病院に就職した。
叔父の経営する診療所で働かないかという誘いを断り、若菜がこの病院に就職を希望したのには理由がある。それは、真奈美のことが気にかかっていたからだった。
若菜と真奈美は、同じ「傷跡」を持つ「仲間」で、若菜は真奈美を「他人」だとは思っていないし、思えない。
真奈美が若菜をどう思っているかはわからないが、それでも若菜は真奈美のことが気にかかっていた。
『杉原さん……もう歩けないみたい』
そのことがなにを意味しているのか、若菜には十分過ぎるほど理解できた。
時間がない。
真奈美に残された時間は、後僅かしかない。
それは真奈美の、近い将来での死を意味していた。
若菜は何度も真奈美のカルテに目を通し、その度に悪化する症状に苦悩し、完璧ではない医学にもどかしさを感じる。
そして、自分の無力さを痛感させられる。
現在の医学で、真奈美を病から解放させるのは不可能だ。不可能に近いではなく、不可能だった。
多少は医学の知識がある若菜には、真奈美の症状が悪くなることはあっても、よくなることはないのを知っている。
ついに真奈美の症状は、歩けなくなるまでに悪化してしまった。真奈美はもう二度と、自分の脚で歩くことはできない。できないだろうではなく、できない。
寝たきりになれば、症状の悪化速度は急激に増す。
若菜には、真奈美が衰弱していく様子が容易に想像できた。
一ヶ月後。真奈美は、自分で上半身を起きあがらせることもできなくなるだろう。
二ヶ月後。真奈美は固形物を摂取できなくなるだろう。
三ヶ月後。真奈美は自分の意志では身体を動かせなくなり、水以外は咽を通らなくなるだろう。
四ヶ月後。真奈美は骨と皮だけになり、体重は三十キログラムを下回るだろう。
五ヶ月後。真奈美は……もう、生きてはいないだろう。
これらは若菜の想像でしかないが、さほど突拍子もない想像ではない。若菜の想像が幸運にも外れたとしても、真奈美は半年後には若菜の想像した通りの最後を迎えることとなるはずだ。その確率は、95%以上。絶望的な数字だ。
若菜は零れそうになる涙を堪え、一つ深呼吸をしてから席を立った。
そして若菜の脚は、自然に(無意識に)真奈美がいる個室病室へと向いていた。
2
若菜は病室のドアをノックし、「杉原さん、入りますよ」と声をかける。室内から、「どうぞ」と中から返答があった。
ドアを開けるとすぐ、ベッドの上で上半身を起こし、窓の外を眺めている真奈美が目に入った。次いで部屋の隅にある車椅子に視線が向いた。それは昨日まで、この部屋にはなかった物だ。
「お薬……ですか?」
窓の外を見たままの姿勢で真奈美が問う。
「い、いいえ……」
「そうですか。お薬が増えたのかと思いました」
いい終わると、やっと真奈美は若菜に視線を向けた。
「どうして……ですか?」
若菜の問いに、真奈美は車椅子を見るという方法で答える。若菜はやるせない気分になったが、顔には出さなかった。
「杉原さん。ご気分はいかがですか?」
「普通です」
真奈美は即答した。
「そう……ですか」
「普通ではいけませんか?」
言葉に詰まる若菜。
真奈美は時々、とても「意地悪」なことをいう。本人に、その自覚があるのかどうかは不明だが。
「い、いいえ、そういうことはありませんけれど……」
「あの、彩崎さん。わたしに、なにかご用ですか? 検温なら、先ほど終わりましたけど」
微妙に張りつめた空気が病室を満たす。
若菜の「傷跡」がズキンと痛んだ。
真奈美の顔を見ると、どうしても「彼」のことを思い出してしまう。だがそれは真奈美も同じなのかもしれない。彼女たちは同じ「傷跡」をもっているのだから。
その「傷跡」の痛みが二人の間に見えない壁をつくり、ある一定以上は近づけないのかもしれない。
真奈美は若菜を、「看護婦さん」ではく「彩崎さん」と呼ぶ。
若菜以外の看護婦は「看護婦さん」であることを考えると、真奈美にとって若菜は、「看護婦さん」である以前に「彩崎さん」なのだろう。
だが、それだけのことだ。若菜は真奈美に「言葉にできない繋がり」を感じているが、二人は友達ではないし、親しいともいえない。
とくに真奈美は、若菜を避けようとする感がある。若菜もそれは感じていた。
(杉原さんにとって私は、「彼」を思い出させるイヤな存在でしかないのかもしれない)
そう思うこともある。
そしてそれは、ある面では事実だった。
真奈美は「彼」のことを忘れたことなどないが、それでも「彼」との間に自分と同じような関係があった(らしい)若菜を見ると、より一層「彼」を思い出してしまう。それは真奈美にとって辛いことでしかない。
だから真奈美は、自分では意識していないが、「どこか」で若菜を避けていた。それに若菜も、避けられていると感じているのを「理由」として、必要以上に真奈美に近づこうとはしない。例え、真奈美に対して、どのような「思い」をもっているとしても。
二人は、お互いを「怖れて」いる。「傷跡」が痛むのを「怖れて」いる。
彼女たちは、「痛がり」で「怖がり」な「臆病者」だ。
弱くて脆い、ボヘミアンガラスのような二人。
二人はとてもよく似た内面をもっている。まるで一対の「存在」のように、二人はここに「置かれて」いた。
病室を後にする若菜を見送った真奈美は、「結局……彩崎さんは、なにをしに来たのかしら」と思った。
若菜は義務的に真奈美の体調を気遣う言葉を述べただけで、なにもせずに部屋を出ていったからだ。
(なんだか、疲れたな……)
時計を見ると、まだ午後二時をまわったばかりだった。今眠ると、夜に眠れなくなる。
(でも……少しだけ横になろう。眠らなきゃいいんだし)
真奈美は枕に頭を乗せ、シーツを被った。眠らないと決めたはずだったが、五分も経たない間に真奈美は眠りに落ちていた。
しばらくすると真奈美は、楽しい夢でも見ているのか「くすっ」と小さく笑った。だが日が暮れ始めるころ、泣いている自分の声で目を醒ました。
頬に触れると、そこは涙で濡れていた。
真奈美の脳裏に、見ていた夢の光景が断片的に浮かぶ。
青く透明な海原が目の前に広がる浜辺にいた。「彼」と二人きりで。
一面緑に被われた草原の真ん中で、白いベンチに座って「彼」をまっていた。一人きりで。でも、楽しかったように感じた。
子猫。とてもかわいかった。
破られた手紙。壊れた時計。夕焼けの丘。かすみ草。
そして……。
真奈美は両手で顔を覆った。その指の間から、透明な雫がこぼれ落ちる。
「うっ、ううっ……ど、して……どうして……」
顔のない人形が燃やされていた。夢の中の真奈美には、その人形が「彼」だと思えていた。だから泣きながら懇願した。
『やめてっ。「彼」を殺さないでっ!』
そこで目が醒めた。
淡いオレンジ色に染まる病室。
嗚咽を続ける真奈美。
「うっ、ど、どう……して……どうして、わたしを置いていってしまったの……?」
返答はどこからもない。
室内には、真奈美のくぐもった嗚咽だけが響いていた。
3
日に日に衰弱していく真奈美。
「私になにができるの?」
なにもできはなしない。若菜は思った。
自分にはなにかをなせる「力」はない……と。
「ご気分はいかかがですか? 杉原さん」
ベッドに横たわる真奈美から返事はない。目は開いているから、起きてはいるのだろう。
「杉原さん?」
「……ぁ」
「はい?」
「いつから……いたのですか……?」
「つい先ほどからです」
「……そう、ですか」
「ご気分がいかがです? どこか苦しいところはありませんか」
「……苦しい? えぇ……そうですね」
真奈美の言葉は続かない。若菜は「失礼します」と真奈美の額に触れた。微熱はあったが、これはいつものことだ。真奈美の平熱が三十七度から下がることがなくなり、もう三日が経つ。
そして真奈美が散歩の途中で倒れてから、今日でちょうど三週間になる。
若菜の予想よりはやく、真奈美はもう寝たきりの状態だといっていい。食事の量も減り、トイレに行くのも困難になっている。
「わ……たし、死ぬ……んですか……?」
不意打ち。若菜は絶句した。
若菜の驚いたようなやるせないような顔を眺め、
「……そう、です……か」
真奈美は全てを悟り呟いた。
一分ほどの静寂。
「こわい……ですか?」
若菜の問いに、真奈美は数瞬瞳を閉じ、そして開くという動作の後。
「……「彼」のところへ、いける……から」
無表情の真奈美を見つめ、若菜は、
「そ、そう……ですね」
掠れた声で答えた。
「……はい」
微妙に、そう、微かに真奈美の表情が動いた。若菜にはそれが、「頬笑んだ」ように感じられた。
若菜の中で、「なにか」が軋んだ。
それは「絶望」? それとも……「嫉妬」なのだろうか。
真奈美だけが「彼」のもとへ「飛び立てる」。自分を置き去りにして。
(私は、「また」置き去りにされてしまう)
恐怖だった。
残される者の恐怖。
(あんな辛い思いは、もう絶対にしたくない)
しかし若菜にはどうすることもできない。真奈美の死は間近に決定されていて、若菜にそれを覆す「力」はない。
若菜にできるのは、覚悟を決めることだけ。
真奈美の死と、「彼」の死の違い。
それは、覚悟を決める時間が与えられているということだ。
若菜には、真奈美の死を「納得するフリ」をする覚悟を決める時間が与えられて、残り僅かだが与えられていた。
自分になにができるのか? 自分には、なにを成す力があるのか? ただ絶望し、起こるはずのない奇跡を願うだけなのか?
病院での勤務が終わり帰宅した若菜は、すでに慣れ親しんだベッドの上に横になってそんなことを考えていた。
だが時間は過ぎ去るだけ。若菜に「答え」は示されない
『……「彼」のところへ、いける……から』
微笑んだ真奈美。
若菜の苦悩は、独りよがりでしかないのか? 真奈美には、若菜が苦悩していることなど、「どうだっていい」ことなのだろうか。
わからない。なにもかも、若菜にはなにもわからない。
あまりに無能な自分。なにもできない自分。幼い日の「彼」が、若菜の瞼の裏で微笑んでいた。
「……ごめん……なさい」
なにに対しての、誰に対しての謝罪だろう? 若菜の閉じた瞼から涙が零れ、白い頬を伝った。
風がながれていた。
辺り一面に草原が広がり、若菜は一つ深呼吸をする。心地よい「力」が、若菜の中を満たした。
と若菜は、空から「天使の羽」が降り注いでいることに気がついた。
そっと手の平を差し出す。
若菜の手の平に「天使の羽」が乗り、溶けた。
(杉原……さん?)
これは、「天使」になった真奈美の「羽」だ。若菜は理解した。
理解した若菜の胸の奥。どす黒い「なにか」が溢れた。
(許さないわ……杉原さん)
「彼」と真奈美。二人の、一対の「天使」が、若菜の前に現れる。
「天使」たちは目の前の若菜に気づく様子もなく、キスを交わした。
「―――――――ッ!」
若菜は「なにか」を叫んだ。「彼」の「天使」が消え、真奈美の「天使」だけが残った。辺りはすでに草原ではなく、「腐った臓物と血」に満たされていた。
若菜は「腐った臓物と血」に足首まで浸かっているが、真奈美の「天使」は少し浮いているので、「汚れ」てはいない。
真奈美の「天使」が、真っ直ぐに若菜に視線を向ける。
嗤っていた。
愚かな若菜を見下し、真奈美の「天使」が嗤った。
「殺してやるッ!」
若菜はいった。
真奈美の「天使」が真っ白な翼を拡げ、天空に光に向かって飛ぶ。
「に、逃げないでッ!」
虚空に手を伸ばす若菜。「天使」には届かない。
「逃げるなあぁああぁぁッ!」
絶叫。
届かない「想い」。
白い羽が降り注ぐ。
若菜の身体が、「腐った臓物と血」に沈んでいく。
(私……地獄に堕ちるのね)
溶けだした自ら身体を抱きしめ、若菜は泣いた。
「底」にまで堕ちた若菜は、黒い骨だけになった身体を「恥ずかしい」と感じた。
(これが私の「本当」の姿。醜く「汚れた」、私の「心」の姿なんだわ)
「天使」になった「彼」。
「天使」になった真奈美。
そして、地獄の「底」で「汚れた」姿を晒す自分。
地面から染み出てきた十三羽のカラスが、若菜にいった。
『天国に行きたいか? 「天使」に生まれ変わりたいか?』
「……はい」
若菜は答えた。
『ゲラゲラゲラゲラッ』
楽しそうにカラスたちが嘲笑する。
『無理だね。「汚れた」お前が、「天使」に生まれ変わることなんて、できっこないのさッ』
カラスたちが黄金に輝きだし、空に舞う。やがて黄金のカラスは一つに集まり、真奈美の「天使」になった。
「くすっ……かわいそう、彩崎さん」
バサッ
背中の翼をはためかせ、真奈美の「天使」が微笑む。
「でも、仕方ないことですよね。彩崎さんは、「汚れた」人だから」
なにもいい返せなかった。
「さよなら、彩崎さん」
真奈美の「天使」は、光となって消えた。
若菜は、「ごめんなさい」と何度も呟きながら泣いた。
そして若菜は、泣いている自分の声で目を醒ました。カーテンを通り抜けて室内に入り込む陽光が、すでに夜が明けていることを告げていた。
4
風ながれる草原。どこまでも続くかのような緑。白い雲が浮かぶ蒼穹の空。
真奈美は草原の真ん中に立ち、目の前に立つ「彼」を見つめた。
「逢いたかった……ずっと、逢いたかったの……」
「彼」の胸に飛び込む真奈美。「彼」は当然のように受け止めてくれた。
力強い「彼」の腕に包まれ、真奈美は伝えられなかった「想い」を告げるために顔を上げる。
「……ずっと、あなたが好きでした。今でも、大好きです。愛して……います」
やっと告げることができた「想い」。
「彼」は微笑んでくれた。
「もう……離れない。もう二度と、あたしを離さないでください……」
重ねられる唇と唇。
真奈美は言葉にならない幸福の中、スッと溶けていった……。
5
主がいなくなった病室。だがすぐに、違う主がやってくることだろう。
『杉原真奈美』
若菜は「天使」となった病室の主の名が記されたプレートを抜き取り、そっとポケットに忍ばせた。
「……さようなら、杉原さん」
呟き、若菜は病室を後にした。
『さよなら、彩崎さん』
後方から真奈美の『声』が聞こえた気がしたが、若菜は振り返らなかった。ただもう一度、「さようなら」とだけ呟きを残し、若菜は前に進んだ。
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